のち
ホルに一安心。いつも通りに食餌をし、見回りをし、事務所で爆睡。午後はどうしても抱っこをして欲しくて事務所内をうろうろ、傍で見上げていつものようにか細く「にゃぁ」。
ペンキがついた件の場所は、毛を毟ってしまって薄く地肌が見えているが、今回のような場合にはいっそ安心だ。もちろん飲み込んだわけではないのは、昨日見ている。まだ僅かにペンキが残っている毛をちょっとづつ切り取るが、あまり触らせてくれないのは、昨日私がオレンジXを使ってしまったことによる恐怖(!?)のせいか・・・(^^;)
今日は圭太に朝からたっぷり食餌をさせることができて満足。
細いし、食べる時はたっぷり他の子達の2匹分くらいの量を食べるのだが、飢えている感じがイマイチしない。毛並みもとっても綺麗で滑らか。当猫が必要とする餌の量ではなく、人間が思い込んで決めている量しか出さない、外出自由の飼い猫、というのが当たらずも遠からずの線のような気がする。
この子も妙に懐っこい。もちろん警戒心はあるのだが、人に甘えたくてしょうがないのだ。
優衣の膀胱炎は大分心配のないくらいになっていると思う。まだまだハイポは続けているが。
実はこの季節も、冬などに続いて膀胱炎などになる子が多いそうだ。気をつけなければいけない。
そして健人。健人は昨夜恐ろしいものを吐き出してくれた。固いスポンジタイプのマット・・・と言えば分かるだろうか?床に敷くやつ。伯母宅のキッチンに敷かれているのだが、それを食べていたのだ(>_<)
吐き出したものを見た時には「何で魚の切り身がそのまま出てくるんだ?」と思った。食べ易い大きさに切った切り身、という大きさ形だったのだ。それが4、5個。もう!もう!もう!本当に!!吐き出してくれて良かった。そうじゃなかったら・・・と思うとあまりにも怖くて、昨夜は書けなかった。
健人はおもちゃを噛んでいて飲み込んでしまったりすることが以前もあって、怖い思いをさせられているのだが、注意もしてきたし、ここ1、2年はもちろんそういうことはなかったのだ。だから「あぁ、もう大丈夫」と思い込んでいたのだ。しかしそれが今になってまた起こったのは、どうしてもストレスを考えてしまう。
そんなものを飲み込んだ状態で、ぎんたがいると分かっている私の部屋へ夕方から駆け込んだ健人。今の健人にとって一番安心できるのは私の部屋ということではないか。それはつまり、従妹の赤ん坊の出現やそれに伴う部屋の変化(自分が伯母と寝ていたベッドが従妹に使われているなど)は、健人にとっては平穏を脅かされているということ。それでも伯母宅に戻りたがるのも健人自身。伯母宅から引き取ったとしても、それはそれで健人のストレスになるのだろう。ぎんたもいる。今はぎんたの方が少しマシな程度なのだろう。
状況が一時的に(初盆が過ぎれば、従妹は東京の自宅へ戻る)変化しているのは今はいかんともしがたい。少しでも健人が安心できるように気をつけるだけだ。しかし伯母宅に戻っている時には、そしてそれは私が家にいない時間でもあるのだから、伯母にこそしっかりしてもらわなければいけない。娘と孫娘がいることで、手一杯になっているのだろうことは想像できる。あまりに多くのことを手際良く切り盛りできるタイプではないし。だとしても、「めい」には母親がついているのだから、伯母は何よりもまず健人を見守るべきなのだ。もちろんたまにだって同じことは言える。ただたまは、人見知りが激しいものの、周りの変化すら「おいには関係なか」と流してしまえるところがある。
「吐いてくれたけん良かったばってん・・・。もしまた変なもんは飲み込んだら、健人、死ぬよ」と伯母に言った台詞は自分にも言い聞かせた台詞。おばあは、伯母がいるからだけではなく、私がすぐ傍にいるからこそ、たまや健人、しまじ達のことを心配せずに旅立てたのだ。そう改めて思う。ならば、健人の今回の事件は、私の伯母への甘えにも原因がある。今のような手一杯の状態でも、そしておばあの入院中にも、伯母はちゃんとしまじ達にご飯を出してくれているのだから。私やおばあのように、猫がこの上もなく愛おしいというほどではないのに(それでも猫を好きではある)、毎日毎食、そうして続けてくれることに感謝しなければいけない。
変わらず続くものに不感症になってはいけない。おばあが毎日太陽に感謝の気持ちを捧げていたように、私もなろう。つい忘れてしまったら、その度に思い出せば良い。そうしているうちに、今度は忘れないようになる。いつも忘れがちだから、と諦めることはない。もちろん取り返しがつかないことが起こらないように、一生懸命気がけねばならないけれど。
今日は健人はしっかり夕飯を食べた(昨日はちょっぴり舐める程度だった。普段でも少食なため、気付く手助けにならなかった・・・というのは言い訳か・・・)。お腹も触ってみる。大丈夫、今日は変なものを食べてない。健人が求める伯母の手にはなれないが、それでもその分をいくらか埋め合わせするほどの愛情を注ぐことは不可能じゃないはず。もちろんぎんたとの折り合い(健人とぎんたというだけでなく、私とぎんたとも)には注意しなければいけないけれど。
もっともっと、懐も肝っ玉もでっかい、そんな猫母ちゃんになりたい。
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