ストックを買い忘れていて、この3日ほど眼鏡で過ごしているのだけれど、疲れる・・・。元々眼鏡は嫌い。鼻のところがむずむずするし、時間が経てば何となくそこらが重く感じ、頭も重くなる・・・気がする。視界も制限されるし。その上随分昔のものなので、実は度が合っていない。そんなの駄目じゃん、って感じだけど、実はその後に作った遠近両用は左側の蔓がぽっきり折れている。面倒で修理も頼んでいないまま。どうせコンタクトを外すのは夜遅く、それから眠るまでの間だけだから、と言い訳。自分でどうにか付けようにも、丁度レンズ側との接続部で無理だった。
でも度が合っていない眼鏡は(コンタクトも勿論だろうが)良くないよね、目に。分かっていても、物臭太郎、いや花子は、良くないことを続けてしまう(-_-;)
本を読む時にはだから、眼鏡は外す。外さないと見えないとかではなく(^^;)、少しでも眼鏡から目や頭を解放していたいという意味。しかし読書の時間がめっきり減った最近、僅かな時間ではある。
最近の嬉しいこと。みっきが声をかけてくれること。
傍にいるのに気付かなかったり、皿に餌をよそおっていると、「ねぇ、いるよ」とか「早く食べたいよ」とかいった風に鳴く。しかし警戒心が完全になくなったわけではないので、近付き方、手の出し方(普通は気軽に出しちゃいけません。猫に限らず、動物にはその行為は結構恐怖ですから)によって、身を引いてみたり、飛び退いてみたり、しかししっかり次の行動を好奇心と僅かの警戒で待っている。う、う、愛い奴♪むぎゅぅ~っと抱きしめられたら堪らんだろうなぁ。何か、オヤジっぽいけど(^^;)。しかしチロでさえ随分時間がかかったのだもの、みっきもまだまだまだまだ無理でしょう。他所の人間に対しては警戒心を無くして欲しくないしね。
ぎんたを構うことを気がけているものの、この「気がける」というわざわざの行為が良くないのか、何ともぎんたの健人への反応は変わらず。っていうか、ちょっと酷い瞬間があった。それは私がぎんたを牽制し続けていたのが良くなかったのだろう。優衣と健人がじゃれ合ってるのを、邪魔しに行きそうな気配だったからつい・・・。それに1、2日、1週間、1ヶ月でそうそう何事をも変えられるなんて愚かな考えだ。人がたったそれだけの時間では容易に変われないように、動物だってそうだろう。けれど逆もまた真。些細な何かで一瞬にして変化を起こすこともある。期待しても仕方ないけどね。
ぎんたの瞳が訴えている。
「お母さん、お母さん、お母さん」と。「もっともっともっとボクを見て」「ボクが傍に居たい時に居て」「構って、撫でて。たくさん撫でて」と。
ごめん、ぎんた。
いや、謝るべきことじゃないんだね。「愛してるよ、ぎんた」と、もっともっともっともっと、言葉で、行動で示そう。今日ので足りなければ、明日はもっともっともっともっと。それでもまだなら、もっともっともっともっと。ぎんたの瞳が安堵に満たされるまで。