仕事からなのか、おばあのことからなのか・・・。多分どちらもあるのかも。とは言え、いずれもそんなに切羽詰っている気分ではない。それなら逆に逃避などできないと思う。
仕事はさておき、おばあのことは諦めとは違った意味で仕方がないと思ってもいる。生き物には死が必ず訪れる。願わくば、その死に際が苦しみの少ないものであって欲しいが、死後の世界、というか魂の存在や輪廻を信じている私としては、それは肯定的にすら受け取れるべきこと。ただただ、生き、遺された側が、その喪失感やそれによって起こる変化を快しとできないからこそ、思い悩むのだろう。
H伯母が毎日の世話をし、おかんも必ず仕事帰りに30分から、仕事を早く終えられた時にはそれ以上、一緒に過ごしている。私はおかん達を迎えに来たと呼びに行った数分だけ、顔を見てくる。明日はH伯母にどうしても外せない用があるので、昼食の介助をしに行くことにはなっている。けれどおばあは私には色々させたがらないから、あまり用事を言いつけてはくれないだろう。それでも病院の人間ではなく、家族が介助する方が気分が楽だろうし、言葉には決してしなくても、望んでいると思う。そういう人だ、おばあって。
今日のおばあは今までの中で一番、顔色が良かった。身に纏ったオーラというか、雰囲気も、ここ最近の変わってしまったおばあではなかった。そう、変だ、と感じる以前のおばあがいた。死ぬ前によく以前の元気だった頃のように一時的に回復することがある、という現象が思い浮かびもしたが、だとしても、久々のおばあの表情は嬉しかった。どちらも同じおばあだけれども、やはり違うのだ。明日もこの表情が見られるといいのだが・・・。
優衣は健人と結構駆けっこをしてくれている。一人遊びも得意だし、好きなようだが(健人と違って・・・)、健人と駆けっこするのも板についてきた。しかし、健人を追って居間にまで駆け込み、おかんからクレームがついた。おかんは見てしまえば、触ってしまえば、情が移るのが自分でも分かっているのだと思う。そうなったら、うちの子にしなければいられないだろうから、敢えて目をそらしているのだ。そしてそれが分かっているから、目に触れさせれば、神経を逆撫でするだろうし、最後通告を突きつけられる危険を回避するために、できるだけ目に触れさせないようにしてきた。しかし、最近欲が出てきた(^^;)。前述のようなおかんだからこそ、少しづつ目に触れさせ、情を沸かさせてしまえ、と。それをしてしまえば、今度こそ迎え入れられる子の最後に、優衣がなってしまうだろう。瑠儀達を、しまじ達を、そしてまだこの先、この家がおかんの家であるうちに出逢ってしまうだろう助けたい子達を、この家に迎えたいと考えを実現する日は、またさらに遠のいてしまうだろう。けれど今、私は瑠儀達に、しまじ達に詫びながら、優衣をきちんと我が子として迎えたいと思っている。健人が優衣を見つめる姿が、共に追い駆けっこする姿が、何より優衣本猫が愛しいから。
昨日今日とぎんたの健人への態度がまた硬化した。優衣と健人の関係が気に食わないのか?
とにかく、何があっても悪いイメージに囚われないようにしよう。私の気持ちや考えや性格を、猫達は吸い取っていく。だからこそ私は何でも良い方に良い方に考え、気楽に、どっしりと構えていないといけない。結果を早く出すことにばかり気を取られてはいけない。いい結果をイメージすること、イライラしたり、くよくよしたりしないことが大事だ。