来ない。だからクロは以前通り、定刻に定位置で待っていた。「夕方には来るだろう」と思っていたら、夕飯にも来なかった。明日はどうだろう?明日も来なければ、いよいよ戻ったとも考えられるが・・・。その代わりと言っては何だが、助が珍しく朝夕の食餌に来た。じんべぇも助も恐らく飼い猫なんだよね。どちらも3度、ゴム首輪をつけていき、3度とも外してやって来た。外れるようにゴムにしているのだけれど、他の子達はゴムが伸びてもつけたままなのに、じんべぇと助だけが翌日にはなくしてくる、なんて出来過ぎた偶然だ。首輪にメッセージでも、と考えたが、何だか脱力してしまってヤル気になれない。2匹のことを思えば、家を探し当ててでも飼い主と話をすべきなのかもしれないけれど、いるかいないかも分からない飼い主を探し出して話をするなどとは、今の私には考えられない。
「まめたのようなことがあってから、また後悔するのか?」と言う私もいるのだけれど・・・。
昼間、叔母がおばあに花を届けると言って出かけた。おかんにしてくれたのと同じように、おばあに92本の赤い薔薇を手配してくれたのだ。私は事務所で留守番のつもりだったのだが、叔母の注文に反して、普通サイズの薔薇で92本の花束が出来上がってしまい、病室のおばあに見せた後、持ち帰る必要性が出てしまったため、急遽、お供することに。
確かにでかい(^^;)。その上、重たい。ルルを抱えるのよりは軽いけれど、紗美よりは重たかったはず。計ってはいないが。
病室で看護士さん達が驚嘆してくれた。それはそうだろう。人間、90を過ぎて、年の数だけの薔薇の花束など、そうそうもらえるものではない。その1/3ちょいの年の私も貰ったことはない(^^;)。
おばあは「勿体無い。お金を遣わせて申し訳ない」と言いながらも、嬉しそうに、そして目が潤んでいた。因みに叔母は、おとんの妹なので、おばあとは血の繋がりはない。寝巻きだし、両手共に注射針や点滴の打ち損ない(下手さもあるだろうが、おばあの血管はもう脆いし、細いしで、仕方ない部分もあるのだ)などで黒ずんでおり、とてもじゃないが写真は嫌だ、誰がそんな写真を見たいもんか、と言う。そんなのおかんが見たいに決まってるじゃないか、と言うとやっと、それならば、と承知した。間抜けなことに、デジカメは電池切れ、代えの電池を持ってきておらず、看護士さんに断って、携帯の電源を入れさせてもらった。一応、128万画素とか言ってるので、十分だろう。それに何より、めちゃめちゃいい笑顔が撮れたのだ(^-^)。
苦しい思いをして長く生きているのは何の因果か、と思っているにしては、いい笑顔だ。私は長生きしたくないと思っている人間なので、おばあの言わんとすることは、今の私なりに理解はできる。けれど、やっぱりもう暫く、一緒にいたい。健人だって、おばあに甘えるのと、伯母に甘えるのは違うし、私になど甘えはしないのだから。遊びやご飯のおねだりはしてもね、膝に甘えに来たり、ましてや頬や顎を舐めたりなんてしてくれない(>_<)。隣とはいえ、壁一つしか隔てておらず、同じ屋根の下で暮らしてきたのだから、おばあがいなくなることは、おとん方のおじいおばあを亡くした時よりも、喪失感を感じるに決まっている。我儘だけれど、今はまだまだ嫌だ。煩いと思う時もあるけれど、おばあがいなくなるなんて、実は考えたくもないのだ。どこかで覚悟が生まれてはいるけれど、多分、それとこれは別なのだ。
薔薇は、看護士さん達に分けるなり何なり、私に任せるということなので、とりあえず事務所へ持ち帰った。その後、10本を同じ病院に入院し、おばあに見舞いの花を贈ってくれた人へお返しに、10本をナースステーションにお裾分けした。自宅で伯母宅に20本、おとん方のおじいの命日が26日なので、それも兼ねて叔母宅へ20本、残った32本を我が家の花瓶に何とか活けることができた。おかんは花瓶はないと言うし、手伝う気もないようだったし、大変だった(^^;)。どこかで見た花瓶を探し、52本の薔薇と一緒に風呂場に篭り、水切り、刺抜き等々をし終え、花瓶に何とか活け終わった時にはかなり疲れていた。これをなるべく長いこと持たせる、且つほとんどが蕾から少し開きかけなので、綺麗に咲かせるためにもこれからの世話がまた大変。それでもやってしまうだろうな、私は。折角のおばあの薔薇なんだから。
ぎんたを撫で、きりに話し掛けながら撫で、健人の遊びに付き合って、今日も一日が終わる。健人は、「これ投げて」遊びを中断してしまった。わざと近くまで私達の様子を見に来たぎんたを警戒したのだ。折角、ぎんたが寝てるタイミングを狙って遊び始めたのにね。何か方法を考えないと、健人も私も、そしてぎんたもストレスになりそうだ(^^;)。
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