ミュウちゃんというのは、私が最近尊敬させてもらってる川口さんのところのアメショーだ。とても穏やかな優しい顔立ちをした、深い深い瞳を持った雄のアメショー。川口さんと猫との関わりの全ては、ミュウちゃんから始まったのだ。心臓の発作を起こしたり、胸に水が溜まったりで、ここ数日、その対処療法のために毎朝通院していた。それでも、ミュウちゃんは大好きなお母さんのために(と言うのが一番しっくりくるほど)、頑張っていた。実際、そうなのだと思う。
そのミュウちゃんが、未明に息を引き取ったそうだ。大好きなお母さんと、川口さんを愛し、猫達を愛し、支えとなっておられる旦那さまに看取られて・・・。
会ったこともないのに、驚くほどの喪失感、寂しさを感じる。ミュウちゃんを愛する川口さんの気持ちが、日々の「猫雑記」からひしひしと感じられていたからだろう。川口さんはミュウちゃん以外の11匹ももちろん深く愛しておられる。けれどミュウちゃんは彼女の命そのもなのだ(私がこの表現を使うのはおこがましいが)。
無性にきりに会いたくなった。最初から一緒にいるのに、一番世話を焼かせない。聞き分けがいい以前に、手をかけさせることの少ない子だから、これまでずっと甘えてきた。「きりは大丈夫」とそう思ってきた。きっとそんなことはないのに。
きり、ぎんた、紗美に接する時間が、一番短いかもしれない。外猫達1匹1匹と比べていけば、そうではないのかもしれないけれど、起きている時間の中で、事務所にいる時間が一番長く、さらに家でもしまじやチロに割く時間も若干ながら出てくる。そして健人もいる。たまのこともきになるので、つい時間を割いてしまう。そうすると、残った時間をきり達は分け合わなければいけなくなってしまう。紗美はまだいい。おとんやおかんやルルが好きで、1階で過ごす時間も長いし、必要以上に、そして自分が必要とする時以外に私に構われるのを嫌がる(私がしつこいからか!?)。ぎんたは、昔から私にべったり。最近若干減ったが、それでも私の傍にいることを好むし、実際そうする。そうなると、きりは必ずしも自分の望む時に私の傍に来れなくなる。きりは傍に他のものがいない状況でしか、私に近寄らない。そうしたくても。だからこそ、私から近寄ってみたり、きりがそうしようとした時は、その時間を大事にしている・・・つもりだ。それで足りているのか、と問われると心許ないのは、やはり十分ではないと自分でも思っているからか・・・。
瑠儀達も、外猫とはいえ、私の気持ちは「私の猫」だ。けれど、その始まりは「きり」であり、「きり」がいてこその「ぎんたとの出逢い」だった。その「ぎんたとの出逢い」があってこその「紗美」だった。
そしてこの3匹がいるからこそ、私は頑張れる。
もっともっと今以上に、3匹との時間を大切にしよう。もっともっと「愛してる」と伝えよう。
愛情も魂も消えはしないけれど、その温かさを直に感じる時間は限られているのだから。
ミュウちゃん、お休みなさい。そして、ありがとう。
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