まもちゃん、ありがとう。

猫がいる別宅

「猫は階段を降りるように衰えていく」というようなことをある有名な猫飼いさんが書いてたのを読み、「なるほど、確かにその通りだ」と思った。
ある頃から、大きな一段をがくんと降り(体調を崩したり、食べなくなったり)、科と思えばいったん落ち着いて穏やかに暮らす。安心してるとまた大きな一段をがくんと降りる。そんなことの繰り返し。
だから、階段を降り始めたら慌てて、それまで手間暇かけられなかったことを謝るようにケアをする。その前からやれよ、って話は置いておいて。
普通、時間があるわけだ。病氣であれ、老いであれ、償うかのような行動をさせてもらえる。それは精神的体力的に大変なこともあるけれど、だからこそその子が旅立った時に悔いずに見送れもする。

「まもる」こと、まもちゃんが今日夜半過ぎに旅立った。子猫で保護して11年、里親さんが見つからず(本猫は最初からうちにいるつもりだった(^^;))、私のことを大好きでいてくれるのがよく分かる子だった。
色んなサインを見落としてたんだろう。他の子達の体調の悪さにばかり目がいっていた。ちょっと「あれ?そろそろ氣をつけなきゃ」と思ったのは2、3日前の久々の抱っこの時。けれど、まもちゃんは階段を駆け足で降りていった。
だから久々に、本当に10数年ぶりくらいに後悔が襲う。体調に氣づかなかったこと以上に、もっともっと甘えさせてあげたら良かった、ということに。せめて抱っこできたこと、ことのほかまもちゃんがそれを喜んでくれていたことが、さらに後悔を誘うようでもあり、慰めでもあり。

後悔がなくとも、いつも思うのはただ「もう触れられないことが寂しい」。
自由になったまもちゃんや他の子達には、そちらでゆっくりしなさい、と思う。いつかまた逢えるから。
今までありがとうね、まもちゃん。これからも大好きだよ、まもちゃん。

※この記事はシェアしない。もともとただ記録を残したいだけだし、色んな意味で見せたくない氣分。慰められるのは今もって得意ではないNat-m.なので(笑)
万一この記事を読んだ方、「そんなことがあったんだね」と思ってくれればそれでいいです(^-^)

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