一応私もJPHF認定インチャセラピストなのだけど、私がセッションをさせていただく、という予定は当面ありません。なので、これは私が受けたセッションのお話。
そもそも人に愚痴を言うのは苦手で、ダメなことだと思ってた。
相手には「いつでも愚痴位なら聞くよ」とよく言うけれど。
泣いちゃうかもしれないからね、相手の前で、私が(^^;) 弱音を言うのも泣くのも、相手に負けを認めたことになるから嫌だった。
と、既にどんだけインチャ出てきてんねん、って感じだ(笑)
インチャがいたとしても何とかやってきたし、とんでもないくらいのインチャ抱えてる人に比べたら、私程度で大変なんて言ってられない、と。……自分に優しくなさ過ぎる(^^;)
インチャセラピストコースの同期に、言うなればインチャセラピストの申し子みたいな人がいる。
学校に通っている頃からがんがんインチャ癒しを進めてた。凄いなぁと思いながら、劣等感があった時もあった。「私にはそんなふうにはできない」と。
それから、彼女のいろんな想いを知り、意外な面に何度も驚かされ、二人で認定試験も受けた。
その彼女に今私は救われている。
めげないんだ、彼女は。私が「感情日記」を書くのを嫌がっても、セッション受けるのを後回しにしても、服の裾をちびっと握って、でも離さない。そしてついに尻尾を掴まれて、セッションを受けることに肯ってしまった。「ご飯食べながらでいいんです」って言うんだもん(^^;)
結論として、「彼女が尻尾を掴んでくれてよかった。粘ってくれて良かった。吐き出させてもらえて良かった。」と思う。Zoomでやるのって何となく距離があって、ミーティングでも違和感否めないのに、彼女とのセッションはそれがなかった。何だろう?氣持ちの距離とか?
泣いた、本音を言った、エグイ言葉も吐いた、くすぶってた思いも言葉にしてもらった。
ちょっと異色なやり方でもあるけれど、その異色さゆえに、かしこまらずに、普段氣の置ける友人(そもそも私にとっての彼女はそうなんだけど)と話すように。何氣なく思ってることがぽろりとこぼれるようなセッションになるんじゃないのかな、と思った。
お陰で、私は本当に自分に無理をさせてきたなぁと氣付けた。
人のためにならなければいけない、相手の方が大変なんだから私が頑張らないといけない、私がやっておけばそれでうまくまとまるんだからそうしないといけない、認めてほしいけどきついとか助けてほしいとか甘えたことを言ってはいけない(どうせ言っても分かってもらえないのだから)、とかとか、出てくる出てくる。
自分に、いや小さないくちゃんに「ごめんなぁ、こんなに我慢させとったって氣付いとらんやった、大変けどまだ大丈夫って思うとった」と。
インチャ癒しという言葉に嫌気がさす時もある。
インチャという存在を知るが故の落とし穴や罠もある。
インチャが必要な時もある。原動力として。
いずれにしても、つまりは、自分の心の在り方の問題、自分をどう扱いたいかという問題。
かつて私は、「私が私のことを一番好き」と自信をもって言い切っていた。ダメなとこも含めて好き、と。そうじゃなきゃどうして人は生きていけるのか?と思ってた。
いつかまた同じ言葉を、もっと自分を大事にした上で、言い切れるようになりたい。
れんげちゃん、またセッションお願いね(^_-)-☆
是非一度、彼女のサイトを覗いてみてください♪彼女が書くブログもお勧めです。
同じようにできなくてもいい、でも「そんなこともあるんだ(゚д゚)!」という視点はいろんな時に役立ってくれる、かも⁉